架場の手を引いて逃げた、はずだった。小さな手の感覚がいつの間になくなっていたのかもわからない。気づいたら2階の音楽室に一人で、持て余した右手を眺めてみても軽く辺りを見渡してみても架場どころか人一人いなかった。
 さっき教室で見た変な腕のことなんてなかったみたいに静かだった。俺はまだ現状が掴めなくて、心臓のどきどきする音が破裂するみたいに耳の後ろで高鳴っていた。泣き出してしまいたかったけれど、何に対して泣けばいいのかすらわからない。
 もやもやとした焦燥感がまとわりついてうまく呼吸が出来ない。俺が何したって言うんだ一体。



憎 悪 か ら は 腐 臭 が し て


「あ、しょーちゃん。こんなところにいたんだぁ」
 その声に振り返ると轍が口元だけで笑っていて、俺は思わず愛想笑いを引きつらせる。最初に出会ったのがこいつだなんて、本当ついていない。
 轍は男なのに女子と同じ制服を着ていて、それも背が低いとか童顔とかそういうのならまだわからなくもないんだけれど(それにしても非常識だとは思うけれど)、女らしい顔や体つきとはかけ離れていて、似合わないのをわかっていて敢えてその服装を選んでいるように見えた。子どもっぽい口調や適当な人を『ジェシィ』と呼ぶのは圷の真似をしているようで、その言葉の端々に違和感を覚える。まじ意味わかんねぇ。
「あ、わ、轍」
「なんなんだろうねーここ。あの白い手とか、どうなってるんだろ」
 俺の動揺を無視して轍は勝手に話始めた。うわーどっか行ってくれないかなー。
 轍は昔から人を見ない奴だった。例えば人に何かしてもらってもお礼を言わなかったり、人の話を聞くとかなんかそういう小さいことがところどころできない。タイミングも悪くて忙しいときに限って頼みごとばかりしてくる。掴みどころがなくて高圧的に振舞う轍はモロ苦手なタイプだ。
「あのメール、本当にヒメジなのかなぁ」
「あぁ……」
 そういえば、なんで圷死んだんだろう。
 あのときまで教室は圷の支配下にあった。白石の執拗ないじめも物ともせず、友人をころころと変えながら楽しそうに過ごしていた圷がいきなり屋上から飛び降りて死ぬ理由なんて見当もつかなかった。
「やっぱりあっちゃんのせいなのかな。どう思う?」
「いや、あ、えっと……」
「あはは、あれはないよねぇ」
 細い目を動かさないまま馬鹿にしたように轍は笑った。
 圷が死んで白石の次のいじめのターゲットが自分になるかもしれないと思うと気が気じゃなかった。個性の強すぎるクラスメイトは怖かったけれど思えば多少の憧れもあったような気もする。少なくともこの正体不明の轍なんかよりは。
「はは、そうだよな……ないよな……」
 けれども、それ以上に他人に流されて頷くだけの自分が嫌になる。

 そういえば、と思い出したように轍が言った。
「しょーちゃんって最近いのちゃんと仲、いいよね?」
 その一瞬で鳥肌が立った。ダメだ、もう限界だった。ろくな返事も聞かずに走り出す。あのメールが本当なら、俺は奴のわがままのために殺される。
「ふーん……」
 轍が追ってくる様子はなかったけれど、不満そうな声は耳に届いた。
 誰でもいい、誰か助けて。
 そんなことを思いながら、俺は俺だけのマリア様を求めていた。
 彼女に会いたい。


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