約束したんだ 月明かりの足元で 子ども達が九九を覚えるみたいに、何回も何回も繰り返してさ 忘れないように、いつでも思い出せるように、 左手のポケットはいつもからっぽにしておいた いまはもう何も入るものはないけど 痛 い 痛 い と 泣 く 細 胞 ------ 「また、ヒトリがいなくなってしまったね」 「えぇ、ずっと一緒にいられないのは寂しいわ」 わかっていても。その言葉は意味のないものだったので、トナリは続けなかった。 トナリの傍にはいつも誰かがいるので、トナリは一人で夜を越えたことがなかった。もしもトナリが一人で夜を越えることができると神様に言われても、トナリにはそんな勇気がなかった。夜は暗くて静かでひんやりとしている。 「出かける」 「新しいヒトリを探しに?」 「ソレカラはほっといて」 「ほっとかない」 ソレカラは意地悪く笑ってトナリの髪を撫でた。 「僕がトナリの隣にいてあげるよ。トナリが別れを望むまで、ずっと」 ソレカラの声はハチミツのように甘くて羽毛のようにやわらかくて、とても心地の良いものだったけれど頷いてはいけないと思った。その都合の良い甘さに浸っているといつか黒い湖に沈められてしまう予感がしていた。予感、それだけでしかなかったけれどそれだけで十分だった。トナリの直感はとてもよく当たる。 「トナリ、きみは誰を探しているんだい?」 「一番ちいさな素数」 フタリとなら、どんな寂しい夜だって乗り越えられる気がした。フタリが見つかる可能性はとてもとても低いものだったけれど、トナリは彼の存在をずっと探している。 「じゃあ」 彼がトナリの右の手首を掴んだ。 「僕を2にしたらいい」 ソレカラは悲しそうに、くしゃりと笑った。トナリはソレカラがそんな表情をするのを初めて見たのでとても驚いた。自分が彼を悲しませてしまった罪悪感と見てはいけないものを見てしまったときの気まずさのようなよくわからないもやもやとした気持ちが足元を凍りつかせる。 視線を逃がすように空を見上げると、ぼうっと伸びた藍色の遠くに黄色が丸く滲んでいた。確かあれは朧月だ。あぁ、また夜が来てしまったんだ。 「トナリ、きみは一人では生きていけない。隣に誰かいてくれないと歩くこともできない、弱くて愚かで、とても可哀想な人」 黙って見上げるとソレカラが静かに笑った。 「本当はずっと、誰かに助けてもらいたかったんでしょう?」 違うよ。その言葉は無駄だったから返さなかった。 そう思われたことが悲しかった。冷え切った夜の湖に一人ぼっちでいるみたいだった。迎えを待っていても誰も来ない。ぽろぽろと落ちる涙が止まらない。 「だから僕がトナリの代わりに生きてあげる。悲しいことも嬉しいことも全部、トナリに見せてあげるから」 甘えん坊はハチミツの甘さをよく知っている。触れるだけの右手を解こうとしなかったのはトナリだ。それはトナリ自身が一番よく解っている。 「許してくれるの?」 トナリがそれを望んでいなくても? 「いいよ」 ソレカラが口元だけで薄く笑った。あぁでもね、欲しかったのはその笑顔じゃないの。涙は止まらないし、思いは言葉にならない。 だからトナリの思っていることはいつも伝わらない。 ソレカラが繰り返す「愛してる」が優しくて悲しくて、このままじゃいけない気持ちとこのままでいたい気持ちが混ざり合って、トナリは動けないままでいた。 彼は静かにトナリを抱きしめたけれど、トナリは息が苦しくなって心臓は冷蔵庫に入れたままのチョコレートみたいに冷たくなっていた。 もう動くことはないんじゃないかな。 ------ ・となり[名詞]:きみの、あるいは誰かの傍ら。一番近くにいられる権利。 ・それから[接続詞]:変化を求めること。要にはなれるけれど、主役にはなれないと最初から解っている。 ・ひとり[名詞]:自由であること、それと同時に責任も担う。仲間を増やすことができる、きっと主人公。 |