実験は予想だにしない形で終わった。日記帳は白紙だった。
 あのプログラムが実はバーチャルだったと言われて、訳の分からないまま現実に引き戻された私たちは政府によって壊された人間関係と逃げられないアイデンティティを抱ながらも平静を装って笑うことを選んだ。少なくとも表面上は。
 紫や二葉がいなかったら、もう笑うことを止めてしまっていただろうか。皮肉なことにプログラムは自覚していなかった大切な人の存在を際立たせた。ささやかに行われていた実験は人知れず続行される。

 両親のいなくなった家は自分の呼吸の音さえも聞こえてくるみたいで居心地が悪い。
 放課後、私は着替えもしないで近場のショッピングモールへ向かう。どこでもいい、どこかに行きたかった。家にはまだ、帰らない。空はまだ明るくて、空気は朗らかにあたたかくて、緑は若草の香りを僅かに残していた。多分いい天気なんだろうけれど、私の心はどこまでも晴れなかった。


ノ ア の 選 ん だ 地 獄


 2階の文房具売場に見たことのある人がいた。背がちっちゃくてやわらかい色の茶髪でサイドに大きなおだんごを結っている紅樹生。七子とあやめと瀬能と、あと紅樹のクラスメイトも何人も殺した人。
「メアリーラビッツ」
 通称メアリーちゃん。モニターに写ったとき彼女の名前は知らなかった(正確には名簿にあったから覚えていないが正解だ)けれど、持ってたぬいぐるみの名前だけは解った。小学生から中学生くらいの女の子に人気がある3頭身のウサギのキャラクター。姉が好んで着ていたTシャツにも日記の表紙にもいた、私にとって身近なものだった。
 名前を言わなくてもその子は振り返った。膝丈を守った灰色のスカートが動きに合わせて揺れる。
「ぬいぐるみ持ってたとこ見たんだ。恥ずかしいなぁ」
 照れた表情は幼くて、本当にこんな人がたくさんの人を殺しただなんて未だに信じられなかった。あのモニターで嘘の情報を流す可能性の方が考えられないからきっと真実なんだろうけれど、それでも認めたくなかった。
 被害者がいるということは、確かに加害者もいるということ。

「一中の人だよね?」
「……穂山ひかり、3年1組。悪いけれど、名前聞いてもいいかな?」
「3年イ組、遊佐瑞」
 クラスと名前を聞いて確信した。確かに合宿で、プログラムで一緒だった。
「プログラムお疲れ様、ひかりちゃん」
「……プログラムの話ができるんだ」
「ひかりちゃんが嫌じゃなければ」
 この人も、実験をしていたのだろうか。遊佐は感情を殺してるっていうよりも感情を飼いならしているように見えた。
「大丈夫。私は怒ったり、恨んだりしていないから」
 返した言葉は半分が嘘で半分が本当だった。遊佐がどんなことを考えながらプログラムに参加していたのかが気になった。彼女はぬいぐるみこそ抱えていたものの冷静に順応しているように見えた。
「君が殺しても殺さなくても事態はさほど変わらなかった」
 解ってる、と遊佐は言った。本当に解っているのだろう。

「ねぇひかりちゃんはプログラム中、何してたの?」
「歩いて、日記を書いて、自分の感情と向き合っていた」
 感情を確かめるために死体を探していたことは伏せた。私はその行動を『実験』と呼んだ。プログラムなんかでは死生観は変わらなかった。遊佐は表情こそ変えなかったもののあまり感心はしていないようだった。それが冷めた自分の表情によく似ていて、私は少しだけ嫌悪する。
「遊佐は?」
「私はまず最初に誰を優勝させるべきか考えた。生き残るなら国にとって一番有益な人がいい」
「だからそれ以外を殺そうとしていたの?」
「そうだよ」
 なるほど政府はずいぶんと優秀な愛国者を見つけたものだ。呆れる反面で感心する。
「でも本当に国を良くするのなら、プログラムそのものをなくさないといけない」
「え?」
 愛国者じゃないの。驚いた私に遊佐がいたずらっぽく笑った。
「この国の安寧を守るために働いてくれている政府には十分感謝しているよ。けれど、ダメなところはちゃんと直していかなきゃね」
 その表情は明るく大胆で危なっかしい姉を思い出させた。

 バーチャルプログラムが終わってまだ数日、目の前のことにすら片付けられない私たちと違って、彼女はその先の先の問題まで着手しているようだった。
「青井先生の話が本当なら、いつから始まったのかはっきりしないけれど、プログラムに参加したうちの毎年5%の生徒が無傷で生還していることになる。一クラス30人と仮定しても年間で全国に350人、もしかしたらそれ以上の生徒がバーチャルプログラムを経験していて、今後もその数が増えることが予想される」
 こんなに精神を消耗させておいて『無傷』という言い方が気に障ったが、遊佐もきっと死に感情的になれない私と同様にひどく冷めている部分を持ち合わせているんじゃないかと勝手に推測する。
「情報が揃えばバイアスが小さくなるからより真実に近づける。授業で学ぶプログラムと実際のプログラムとバーチャルに大きな差があったら疑われるからね」
「つまり今は情報収集の段階なんだ」
「そう」
「私にも出来ることがあったら協力するよ」
 ふいに出た言葉に自分でも驚いた。政府も国もどうでも良いと思っていたはずだ。でも、プログラムに巻き込まれて当事者になって初めて意識したものがあった。私の感性と他人の感性の行方、その二つが交わるところ。
「ありがとう」
 連絡先を交換して次会うときにはメアリーラビッツの日記帳をもって行こうと、そう思っていた。政府と戦うことを選んだ遊佐と関わることで、私自身も政府に何かの影響を与えたかったのかもしれない。

 けれど彼女と別れたその月に、七子から彼女の死を知らされる。


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