衝動を忘れて息を呑む。絵が生まれていくところなんて、初めて見た。
 授業か何かで絵を描かされる以外に絵を描く機会なんて殆どないせいか、他人が絵を描くところを見る機会も中々ないような気がする。
 厚塗りってこうやって仕上がっていくんだ。最初は意味の解らない色の塊が重ねるごとにどんどん形になっていく。凄い。
 私はただ、呆然とそれを見ていた。

「楽しいです?」
 絵の前に座ったままの文弥が静かに呟いた。彼は中々声を荒げない。
 校内でも目立つ蛍光ピンクの髪、ピンクのカラコンを入れた上に緑のサングラスをつけている彼は派手な見かけに反して普段は大人しい。普段は。その奇抜な色の外見は普通の人を寄せつけない。
 私は軽く上がった息を整えるので精一杯だった。頭が熱をもってぼうっとしている。
 二つの眼鏡を抜けて視線が交わる。冷めた瞳が無愛想に笑っていた。


嵐 の 前 の 愛 す べ き 静 け さ


「……楽しくない」
 楽しいことなんて一つもなかった。
 元々他人と調和できない性格だった。明るく社交的に振舞っているけれど、頭の片隅にはいつも漠然とした苛立ちと虚無感が消えなかった。いつの間にかポケットの中に入れていたカッターナイフが手放せなくなっていた。
 それでも、あい達と仲良くなってからは少しだけマシになったような気がしていた。少しだけ他人が許せるようになって他人が羨ましくなって、歯痒さを知った。
 あぁ、ウザイ。
 私達は短気だ。すぐにいらいらするし、普段笑って許していることがたまにどうしようもなく許せなくなって馬鹿みたいだと思いながらも平気で他人に牙を向ける。
 殺クラなんて理性のない人たちの集まりだ。彼らはそれを部活動だと呼んでいたが、傍から見れば異常だろう。そんなこと、入部の前から知っている。知ってるって。
「――文弥はさ、楽しいの?」
 夏は太陽が中々沈まない分、夜の時間が必然的に短くなる。沈みかけの夕日が駄々をこねるようにして薄明るい空にまだ残っていた。
 クーラーもないし風通りの悪い美術室は蒸したように暑苦しくていらいらする。けれども簡単に理性を飛ばせるから、嫌いじゃない。

「それ」
 文弥が初めてこちらを振り返った。両手についている油絵の具が血みたいで私は少しだけどきっとする。
 殺したのは私だ。

 死体になったその人はもう熱を失った頃だろう。興奮と冷静さの入り混じる脳味噌で漠然とそんなことを考えてみる。
 手元のカッターは肉を削って血を吸って、すぐに錆びてしまった。刃を戻そうにもカチカチと不器用な音を立てるだけで全然動かない。
 その死体は一見誰だったかわからないくらい血に塗れていて、蒸した空間に独特の臭いを放っていた。
「片付けておいてくださいね」
 とても静かな口調で文弥は言った。
 全ての音が死んだ夜みたいだった。

「……やっぱり汚い」
「は?」
 文弥は突然美術室に生けてあったガラスの花瓶を持ってきて死体の真上に落とした。頭蓋骨が折れる鈍い音がする。
 砕けたガラスが夕日に反射してきらきら光ってみせた。花瓶の水が血液と混ざり合って床一面に広がって、その上に色とりどりの大輪が飛び散って、なんだかもうぐちゃぐちゃになっていた。
「よしこれで綺麗になった」
 薄く笑った文弥を見て私は安心する。それと同時に軽く絶望する。

 あんたの絵のこと馬鹿にしたあの女は、殺したんでしょ?


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